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佐賀地方裁判所 昭和55年(ワ)198号 判決

原告

田中香織

右法定代理人親権者父兼原告

田中春夫

同母兼原告

田中和代

右原告ら三名訴訟代理人弁護士

元村和安

被告

荒木忠良

右訴訟代理人弁護士

安永澤太

安永宏

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告田中香織に対し金一億円、同田中春夫及び同田中和代に対し各金一〇〇万円並びにこれらに対する昭和五四年一二月二九日から支払済みに至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  1項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告田中香織(以下、原告らの姓は省略する。)は、原告春夫と同和代との間の昭和五四年一二月二九日に出生した長女であり、被告は肩書地において荒木産婦人科医院(以下「被告医院」という。)を経営する医師で、大塚シゲヨ(以下「大塚」という。)は被告の被用者である。

2  本件損害の発生

原告和代は、昭和五四年一二月二九日午前零時ごろに、破水したのですぐ入院する旨被告医院に電話連絡し、同零時五〇分に同医院に到着したところ、大塚の指示により同医院内の一室で同日午前二時二〇分まで待機し、その後原告香織を出産したのであるが、原告香織は無酸素脳症(脳性マヒ、以下「本件傷害」という。)であつた。〈以下、省略〉

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二本件傷害の発生

請求原因2の事実のうち、原告ら主張の日に原告和代が電話連絡の後で来院し、原告香織を出産したこと、原告香織が脳性マヒであつたことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

1  原告和代は昭和五四年六月二日に被告医院において診察(初診)を受け、妊娠三か月(一一週二日)で、分娩予定日は同年一二月二二日とされた。被告は、同日原告和代の前回(初回)の妊娠について問診をしたが、中毒症状もなく正常分娩であつたとのことで、今回の妊娠についても検査の結果特段の異常は認められなかつた。

その後、原告和代は同年七月一八日、九月一日、一〇月四日、一〇月三一日、一一月二〇日、一二月四日、一二月一八日、一二月二一日、一二月二四日に被告医院において診察を受けたが、その間特段の異常は認められず、正常な状態であつた。一二月二四日の診察時において胎児の体位の変化を思わせるような徴候も認められなかつた。

2  被告医院においては、分娩予定日の近づいた妊婦に対して、五分ないし一〇分ぐらいに規則正しい陣痛が起こるようになつた場合には入院すべく来院するようにと、またそうでなくても破水した場合には入院するようにと指導していた。

そして妊婦が右のように陣痛間隔がせばまつてきたとして入院するのが深夜の場合には、当然ながらあらかじめ電話連絡がなされたうえ来院という運びになるけれども、まず当直の看護婦がこれに応対し(助産婦が適宜応対した場合は必要に応じ看護婦に連絡し)、妊婦の様子をみて出産になりそうであれば、看護婦が助産婦を呼び、そして子宮口が全開の状態になつたときに、就寝中の被告を起こすことになつており、子宮口が全開の状態にならなくとも、妊婦に何らかの異常が生じれば被告にすぐ連絡するということになつていた。その際被告が当該妊婦について帝王切開等の緊急手術が必要と判断した場合には、鳥栖市本町で産婦人科医院を開業している原八郎医師に電話連絡して応援を依頼する手はずになつていた。

3  原告和代は自宅で破水したため、その旨被告医院に連絡のうえ、同年一二月二九日午前一時二〇分ころ被告医院へ原告春夫とともに到着した。当夜は、午後一〇時から翌朝七時まで新生児の世話するためパートで働く大塚シゲヨの出勤日で、一方住込み看護婦の松石照枝(現姓森永。以下、松石という)は午前零時半頃には就寝していたため、大塚が(原告和代から事前の電話を受けたのも同女である公算が大である)原告和代を迎えに出た。原告和代は大塚に対し、破水したこと、陣痛はあまりないことを告げたところ、右大塚により回復室へ案内され、そこで安静にするように指示された。その後、原告和代はしばらくしてブザーを鳴らして大塚を呼んだが、その際大塚に陣痛が五分おきになつたらブザーを押すように指示され、その二〇ないし三〇分後に二回目のブザーを押したところ、大塚は松石に電話連絡をして呼んだ。松石は原告和代を診察室へ歩いて連れて行き、未だ出産が差し迫つた状況ではないと判断したが、念のため分娩台の上で膣鏡で膣内を内診すると、子宮口から胎児の上肢が脱出していることを発見して、直ちに助産婦の藤野シゲ子に電話連絡してその旨を告げたところ、藤野は被告に連絡するように告げ、自らも直ちに被告医院へ急行した。右松石が藤野に電話したのは同日午前二時前ころであつた。松石から電話連絡を受けた被告は直ちに自宅と棟続きの病棟へ向かい、上肢(右前腕)脱出を確認した(〈証拠〉によると、午前一時五〇分)。そして、羊水の流出があり、子宮口開大は小さい状態であつた。そこで、被告は、胎児の頭の位置が高いことと、上肢脱出ということから横位の可能性が高いと判断して帝王切開を要する場合を予想して、その準備にとりかかつた。被告医院においては、帝王切開術を実施するための人的・物的設備を揃えるのに約一時間程度を要した。前記原八郎医師への協力も依頼した。

4  帝王切開術の準備が整い、(原医師もまもなく到着した)原告和代を分娩台から手術台へ数人で抱えて移し、前記藤野が膣内の消毒のため膣内を診たところ、原告和代の子宮口から臍帯が脱出しているのを発見した。そして、原告和代が分娩台上にいるときまでは正常であつた児心音が一時途絶えた。午前三時ころであつた。被告は直ちに藤野に対して、脱出した臍帯の還納及び体位の変換を命じ、同人及び原医師が臍帯還納を行なつたところ、児心音は回復したが、藤野が臍帯を還納する際に感じた臍帯の搏動は弱いものであつた。

同日午前三時二八分にルンバール腰椎麻酔がなされ、同三時三三分に執刀、同三時三七分に女児(原告香織)が娩出された。子宮内における胎児の位置は、完全な横位ではなく斜位の状態であつた。

原告香織は、分娩時自発呼吸がなく、心音も停止ないしかすかに聞こえる程度であり、全身にチアノーゼを呈していたため、被告は、酸素吸入、人工呼吸をやり蘇生術を行つたところ、蘇生したため、直ちに聖マリア病院に搬送した。

三本件に関係する医学的知識

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

1  胎児の位置異常には下向部(外診時、母体の骨盤部に向かつて位置している胎児の身体部分をいう)が児の骨盤部である骨盤位(いわゆる「さかご」)と、胎児の長軸と子宮の長軸(縦軸)が直角に交差する横位、斜めに交差する斜位とがある。

2  横位は骨盤位同様妊娠前半期に多く、妊娠月数増加とともに減少する。成書にはおよそ〇・五〜一・五パーセントの頻度とされているが、近年しだいに減少の傾向にあり、だいたい〇・三〜〇・五パーセントの間で、経産婦に多く、また早産にも多い。なお、頻産婦では、妊娠末期において分娩開始の直前に横位が自然に縦位に変換することがあり、これを自然矯正という。

3  成熟児を横位の状態で自然に娩出することは不可能である。これを放置すれば、児は死亡し、母体もまた子宮破裂の危険に迫られる。その一般の分娩経過は次のとおりである。

陣痛が発来すると、(1)子宮下部は児頭とともに臀部を包容しているため伸展が著しく、両側下腹部に強烈な緊張性疼痛を覚える。(2)胎児先進部が骨盤入口を均等に圧迫することがなく、前羊水と後羊水が互いに交通して大きな胎胞を形成する。したがつて、早期破水をきたしやすく(三八パーセント)、さらにその際、臍帯脱出(二〇パーセント)や、上肢脱出(約五〇パーセント)を起こしやすい。(3)破水後は、羊水が漏出して子宮容積が急に減少するため、陣痛が一時緩解するが、再び陣痛が激烈となる。こうして子宮腔はますます縮少し、それとともに児の頭部が臀部と相接近し、脊柱が母体前方に向かつて彎曲し、頸部が著しく屈曲して、下向肩甲が骨盤入口に進入して肩甲位を呈するに至る。(4)陣痛、腹圧がさらに加わるにつれて、肩甲、脱出上肢、子宮膣部、膣壁は圧迫を蒙り、うつ血をきたして暗紫色を呈し、浮腫状に腫脹する。放置すれば先進肩甲はますます下降し、羊水はことごとく流出して児体は子宮壁に密接し、陣痛は痙攣性、強直性となつて収縮輪が上昇する。子宮下部は児体の大部分をそのなかに包含するに至り、極度に拡大・伸展して、その壁が菲薄となり、子宮下部は破裂に瀕する。このような状態を遷延横位という。(5)さらに放置すれば、ついに子宮破裂を起こし、母体はショック状態に陥る。あるいは、ときに陣痛が弱まり子宮破裂を免れることがある(この場合には、子宮内感染を起こし、内容は腐敗してガスを発生し、子宮壁が麻痺し、子宮鼓腸症をきたし、続いて全身感染を起こし、体温が等しく上昇し、脈搏ははなはだしく細小頻数になつて、ついに敗血症になり、母は早晩死亡する)。

4  横位の場合の分娩時の処置は、次のとおりである。

(一)  破水前

(1) まず、児頭のある側を下にして側臥位をとらせ、腹圧を禁じ、横位の自然矯正(自己回転)を期待する。

(2) しばらく、経過を観察しても、自然矯正(自己回転)が認められないときは、陣痛のあまり強くならないうちに、一応外回転術を行つて頭位への矯正を試みる。ただし、外回転術は陣痛間歇時に静かに行なう。腹壁及び子宮壁の緊張がなく、羊水量が適当であれば成功しやすい。また軽く麻酔を施し腹壁を弛緩させ、骨盤高位にすると操作は容易である。これが成功したら、二〜三回陣痛が反復するまでこのままの状態を保持してから腹帯をし、児頭が以前あつた側を下にして側臥位をとらせ、分娩の経過を自然にゆだねる。

(3) 外回転術が不成功であり、児を熱望すれば帝王切開術を行なう。しかし、この場合に子宮口の全開大または全開大に近くなるのを待つて、内回転術あるいは双合回転術を行なつて足位とし、母児に危険の徴候がないかぎり待機する方法もとられる。

(二)  早期破水を起こした場合

(1) 児を熱望すれば帝王切開を行なう。

(2) 子宮口が全開大またはそれに近づいたならば、静かに内回転術を行ない、不全足位(立位で片足を前に上げた姿勢)とする(すぐに産出術を行わず、母児に危険徴候がないかぎり、自然の経過にゆだねて待機監視する。内回転術を強行してはいけない。子宮破裂の危険がある。内回転術が不成功で生児を期待できれば帝王切開術を行なう)。

(三)  子宮口が全開大している時期に初めて患者に接した場合

(1) 横位では破水後すぐに遷延横位となるものではなく、ある時間ほとんど陣痛もなく、子宮壁も弛緩している。この時期に患者をみたら、ただちに外診を行なつて、子宮破裂の徴候の有無をしらべる。これがなければ、麻酔下に内診を行なう。肩甲の移動性をしらべ、十分移動性があることを確かめたならば、静かに内回転を行なう。臍帯脱出があれば還納するが、上肢はそのままにする。化学療法、抗生物質投与を行う。その後は母児の危険徴候がないかぎり待機する。

(2) 児を熱望すれば、十分な化学療法、抗生物質の投与のもとに帝王切開をする。

5  破水前に先進胎児部分の傍に卵膜を隔てて臍帯を触れるものを臍帯下垂といい、破水後で産道内または陰裂間に懸垂するものを臍帯脱出という。

その頻度は、諸家により差があり、産科学の進歩によつて次第に減少する傾向にあるが、約一パーセントである。

その原因は、四肢の下垂、脱出と同様に児先進部が子宮下部と接着できず、間隙がある場合(横位、骨盤位、反屈位、狭骨盤、CPD、広骨盤、双胎、未熟児、死胎児、羊水過多症、早期破水など)に起こり、また長臍帯の場合にもみられる。

内診により診断できる。臍帯脱出の診断で大切なことは脱出と同時に早期に発見することであり、破水後すぐに内診することが望ましい。ことに破水後児心音に変化が起こつた場合には、ただちに内診を行なうべきである。陣痛発生時およびその直後児心音が不良となり、雑音が聴こえる場合には一応疑うべきであり、陣痛間歇時に子宮底を強くおせば心音が遅くなることがあり、今まで触れなかつた臍帯を内診指に触れることがある。破水後の臍帯は二指間に軽く挾めば確実に診断でき、また直接膣内にみることもできる。臍帯の触診は静かに行なわないと血行の一時停止によりショックを起こすことがあるから注意すべきである。臍帯搏動の有無によつて児の生死をだいたい診断できる。陣痛発作時に搏動が弱くなるか消えれば、臍帯が圧迫されていることを示す。

母体には直接影響はないが、児は不良で四〇〜五〇パーセントの死亡率とされている。

臍帯脱出の治療については、(1)子宮口全開大の場合については、児頭が骨盤内に進入していなければ、足位に回転して牽出術を行なう。児頭が進入していれば鉗子手術を行なう。骨盤位の場合は臍帯の圧迫が少ないから、児心音が悪化しないかぎり観察し、児心音に悪化の徴候があれば牽出術を行なう。横位では、横位の処置として内回転または帝王切開術を行なう。(2)子宮口開大が不十分な場合については、帝王切開術を行なう。また臍帯還納法を試みるか、内回転により足位とし、次いで牽出術を行なう。

6  臍帯脱出の多くの場合は、臍帯が胎児の下向部と骨盤壁の間で圧迫され、胎児心音は不規則緩徐になり胎児仮死から死亡する。

7  臍帯脱出の予知は一般的に不可能といつてよく、これを早期診断するには、内診によつて子宮口又は膣内に脱出した臍帯を直接触知する以外にないが、補助的には胎児心音の聴取がある。

内診の回数を多くすれば、臍帯脱出の早期発見にはつながるが、逆に母胎と胎児に感染の危険性が高まる。

8  一般に陣痛開始前に破膜するのを前期破水、分娩開始後、子宮口開大前に破水するのを早期破水とし、広義には両者を合わせて早期破水と呼称している。

前期破水の場合には、通常破水後暫くの期間をおいて、規則的な陣痛の発来をみるが、この期間をLatenzzeit(潜伏期間)と呼んでいる。妊娠末期における前期破水では破水と同時に臍帯が脱出することも少なくないので注意を要する。もしこの様な事が起こらなければ通常十数時間を経て陣痛が発来する。潜伏期間は卵膜破裂の部位及び状態、並びに個人差によつてかなり異り、諸家の報告によれば平均値は一〇時間〜二五時間の間に存在している。又一般に初産婦に対し経産婦の方が長く、これは先進部の下降の状態のためと考えられている。

前期破水の症例においては、一般に分娩所要時間の短縮が認められている。ある統計によると、初産婦において正常破水群は平均一八時間五六分、前期破水群は平均一〇時間五一分、経産婦において正常破水群一一時間五二分、前期破水群七時間四三分である。

9  妊娠末期の破水の場合には患者に臥位安静を保たしめ、羊水の漏出を出来る限り防ぐよう注意するとともに、小部分、臍帯の脱出を防ぐよう注意すべきである。なおこの際、感染防止のために内診等の操作を出来る限り制限し、抗生物質の投与を考えるべきであるが、抗生物質の乱用は児に対して悪影響を及ぼすので、その種類、投与量には厳重な注意が必要である。このように待機的に自然分娩を計るのが原則と考えられるが、もし羊水の漏出が多量であつたり、又破水後長時間経過しても陣痛の発来のない場合には陣痛促進法を行なう。破水後二四時間を経過しても陣痛をみない場合にはオキシトシンにより陣痛促進を行なうのが好ましいとされる。二四時間以上の経過はいたづらに児に対し感染の危険を与えることになるからである。

10  前期破水において、児の予後を左右する合併症として臍帯脱出が挙げられ、その頻度は〇・五パーセント〜二・九パーセントといわれている。

四本件傷害の原因

右二、三に認定した事実を総合すると、本件傷害は、原告香織が横位に近い斜位の状態であつたため、臍帯脱出により、臍帯が胎児先進部と子宮口との間で圧迫されて臍帯血行が阻害され、原告香織が酸欠状態に陥つたことが原因であると推認することができる。

五被告の責任について

1  請求原因3(一)の主張事実について

被告医院の深夜における医療体制は、前記二2に認定のとおりであつて、その体制自体が原告和代の入院に備えるに不十分であつたと認めるべき証拠はない(救急病院や大病院ならともかくとして市中の開業医院としては夜間の受入れ体制が右の程度にとどまつていることをもつてただちに不相当とはいい難い)し、仮に、来院に備えての人的、物的処置に不適切な点があつたとしても、それが本件傷害の原因となつたと認めるに足りる証拠はない。

2  同3(二)の主張事実についてはこれを認めるに足りる証拠はなく、かえつて前認定のとおり、被告医院では妊婦が深夜来院した場合には通常当直の看護婦がこれに応対し、出産になりそうであれば助産婦を呼び、子宮口全開大になれば被告に連絡するという手はずになつていたのであり、新生児の世話をするにすぎない大塚に看護婦なり助産婦の行なう業務を扱わせていたわけではないから、原告らの主張は採用できない。もつとも、大塚が当夜既に就寝した看護婦にかわつて電話口に出て、原告和代が深夜来院するのを了解したうえ、到着した同原告を回復室へ案内したことは前認定のとおりであるが、右の程度のことを居あわせた大塚がなすこと自体は差支えないというべく、これを非難することは相当ではない。なお大塚において看護婦にすぐ連絡しなかつた点については原告ら主張請求原因3(三)に包摂されるので、次においてあわせて判断する。

3  同3(三)、(四)の主張事実について

前記二3に認定のとおり、原告和代の入院から大塚が松石看護婦に連絡し、同看護婦が胎児の上肢脱出を発見して被告を呼ぶまでに、約三〇分が経過していることが認められるのであるが、右認定を超えて原告ら主張のごとく、午前零時五〇分から同二時二〇分まで原告和代が放置されたと認めるに足りる証拠はなく、この点で請求原因3(三)、(四)の主張は前提を欠いたものである。

そこで、右三〇分の時間の経過のために、胎児が斜位に近い横位であつたことや上肢脱出ないし臍帯脱出等胎児の状態に異常があることの発見がおくれ、早期に胎児の体位を変え、あるいは胎児に異常をきたさない段階で帝王切開術の準備をしてこれを実施することができなかつたとの点について検討する。

ところで、前記三7によると、臍帯脱出の予知は一般に不可能とされ、同三5によるとその発生率は一パーセントと極めて低いこと、又同三2によると横位はその発生率はおよそ〇・五〜一・五パーセントであるとされているが、近年減少の傾向にあり〇・三〜〇・五パーセントの間であること、前記二1によると原告和代について昭和五四年一二月二四日の診断時に胎児の体位は正常であり、体位の変化を思わせるような徴候はなかつたこと、前記三3、10によると、横位の場合には早期破水をきたしやすく(三八パーセント)、さらにその際合併症として臍帯脱出を起こすことがあり、その頻度は〇・五パーセント〜二・九パーセントであること、以上の事実が認められるのであり、右事実からすると、臍帯脱出を事前に予見することは著しく困難であるといわざるをえない。しかして右のとおり事前の予見が著しく困難である以上、本件において原告の臍帯脱出を予測して万全の準備体制をとるということも不可能に近く(深夜来院の際に臍帯脱出があることにそなえるとなると、当然ながらいつもただちに被告に連絡し、かつそれに即応した手術体制をとる必要があるけれども、これを一般開業医に要求するのは酷にすぎよう)、被告が原告和代の来院した際ただちにその診察等に着手しなかつたことをもつて、過失があるということはできない。そして前記二3のとおり、原告和代は入院に際し、大塚に破水したこと、陣痛はあまりないことを告げ、大塚は回復室で安静にするように指示したのであるが、右措置は三8、9に照らして必ずしも不適切であるとは言い難いのであつて、仮に原告和代の入院時に大塚が被告あるいは助産婦、看護婦に直ちに連絡をしたとしてもその際に既に上肢が脱出していて、これを発見し得たと認めるに足りる証拠はないのであるから、大塚が原告和代の入院を直ちに被告らに連絡しなかつたからと言つて、これを非難することはできない。

してみれば、原告らの請求原因3(三)、(四)の主張は理由がない。

4  同3(五)の主張事実について

そこで、さらに進んで、原告和代の臍帯脱出を発見した後の被告の措置に過失があつたか否かにつき検討すると、まず〈証拠〉によると、一般に臍帯脱出に対する措置として分娩第一期の臍帯脱出の場合には通常還納操作を試みることなく、帝王切開分娩とした方が児の予後は絶対的に良好であること、なぜなら熟練者でなければ通常還納は困難であり、容易に還納されたものは再び脱出することが多く、また臍帯操作により、臍帯血管収縮を生じ、胎児の呼吸阻害状態を増強させるからであることが認められる。ところで、本件においては、被告は二3、4認定のとおり、午前一時五〇分ごろ上肢脱出を確認後直ちに帝王切開分娩を予想してその準備を開始し、その手術直前である午前三時ころに原告和代の子宮口から臍帯が脱出していることを発見したのであるが、その際それまでは正常であつた胎児心音が途絶えたのであつて、右事実と被告本人尋問の結果によれば、右臍帯脱出は原告和代を分娩台から手術台に移す際に生じたものと推認することができる。しからば本件において、仮に胎児心音が途絶えたままで、臍帯還納操作を試みることなく、即刻帝王切開術を行なつたとして、原告香織の本件傷害を防ぐことができたか否かについては本件全証拠によつてもこれを認め難く(前記三5によれば、被告が臍帯還納及び胎児の体位変換を命じたことが不適切な措置であつたとは言い難い。)、現に臍帯還納により胎児心音が回復したのであるから、右臍帯還納術を実施したことを以て、被告の過失と言うことはできない。

5  その他、本件全証拠を検討しても、被告あるいは大塚の過失を認めるに足りる証拠はない。

六以上によると、本件傷害についてこれを被告の責任に帰することはできない。したがつて、原告らの本訴請求はその余の判断をするまでもなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用につき民事訴訟法九三条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官綱脇和久 裁判官森野俊彦 裁判官野尻純夫)

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